日本/歴史・・土偶/銅鐸
2012年01月22日
土偶/銅鐸 目次

1. 銅鐸で知る弥生人のこころ
2. 銅鐸で知る豊穣のいのり
3. 銅鐸で知る古代祭礼儀式
4. 壊された土偶、銅鐸
5. 土偶で祈る安産・病気平癒
6. 稲作が変えた祈りのかたち
7. 銅鐸/弥生人の動画感覚
8. 銅鐸/鳥と魚の絵の意味
9. 銅鐸/描かれた絵のルーツ
10.銅鼓の祭りと銅鐸のマツリ
11.カエルが支えた古代農法
12.中国壮族/銅鼓文化
13.銅鐸と古代壮族文化・習俗
14.土偶/古代人のたましい
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(参考図書)※は本文で引用したもの ☆よく見たもの

(銅鐸の写真、銅鐸絵画)
「日本の原始美術7 銅鐸」佐原真 著 講談社1979年※
「奈良県立橿原考古学研究所博物館 特別展図録 『弥生の里−くらしといのり−』」2011年発行※
「銅鐸 弥生時代の青銅器生産」平成21年度秋季特別展 図録 橿原考古学研究所付属博物館
「銅鐸の中の動物たち」平成22年度荒神谷博物館特別展 図録 荒神谷博物館☆
「もう一つの青銅器世界 変わる銅鐸への想い」2009年度特別展 図録 荒神谷博物館
「荒神谷銅鐸のなかまたち 青銅器の谷に国宝銅鐸が集う」2006年特別展 図録 荒神谷博物館 
「加茂岩倉遺跡 銅鐸の謎」 加茂町教育委員会編 撮影 南川三治郎 河出書房新社
「日本の原始美術 7」講談社

(銅鐸の絵画解説ほか)
「歴博フォーラム 銅鐸の絵を読み解く」国立歴史民族博物館編 構成・佐原真 1997年※☆
「銅鐸の考古学」 佐原 真 著 東京大学出版会
「銅鐸から描く弥生時代」佐原 真、金関 恕 編 2002年 学生社発行※☆
「青銅器の考古学」 久野 邦夫 著 学生社
「対論銅鐸」 森 浩一 著 学生社
「岩波講座 日本通史 第2巻古代1」 1993年岩波書店※
「稲・金属・戦争」 佐原 真 編 吉川弘文館☆
「日本美術の歴史」 辻 惟雄 著 東京大学出版会

(古代人の習俗・心象)
「アマテラスの原風景 原始日本の呪術と信仰」(塙選書99)角林文雄 著 塙書房2003発行※☆
「祭祀と供犠 日本人の自然観・動物観」(中村生雄 著 2001年法蔵館発行)※
「人間と象徴 無意識の世界 (上)」C.G.ユング 河合隼雄 監訳 河出書房新社※
「弥生の習俗と宗教」 金関 恕 著(学生社)

(ビデオ youtube)
 [?哉?僚 720HD] 01 - ?董 - 壮族?鼓文化 (1/2)※
 [?哉?僚 720HD] 01 - ?董 - 壮族?鼓文化 (2/2)※
(「?哉?僚」シリーズには他に、稲作文化、宗教などがあり参考にした)

(銅鐸展示の博物館)
 島根県立古代出雲歴史博物館☆
 荒神谷博物館
 九州国立博物館

(銅鼓展示の博物館)
 九州国立博物館☆
 島根県立古代出雲歴史博物館

(資料)
「日本全史(ジャパン・クロニック)」講談社 
「人口から読む世界の歴史」(鬼頭宏著 講談社学術文庫)※
「カエル類のU字溝への落下と再生産に関するフタの効果」中村 寛ほか 宇都宮大学農学部大学院※
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posted by tamatama at 18:56|   土偶/銅鐸 2012年01月21日
土偶/古代人のたましい
縄文時代の土偶は、当時の人々の心の中から自然に現れてきたもので、例えば大陸から伝わってきたといったものではないと思っている。それは、古代人の生殖崇拝に由来したものであろう。一方、銅鐸絵画は稲作とともに大陸から伝わってきた習俗に由来するもので、その起源は大陸稲作発祥の地にあったトーテミズムにあると思っている。

当時の人々が「象徴」とした、土偶、銅鐸絵画についてヒントを得るために「人間と象徴 無意識の世界 (上)」C.G.ユング 河合隼雄 監訳 河出書房新社 を読んだ。(上)には、2編の論文が掲載されている。
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T 無意識の接近 カール・G・ユング

(未開人のたましい)
・「多くの未開人は、自分自身のたましいのみならず、”草原のたましい”をもっていると思っている。この草原のたましいは、野生動物や森の木の姿となって現れ、それにたいして人間は何らかの心理的同一性を持つのである。」(P24)
・「ある種族では、人間は数個のたましいを持つとされている。このような確信は、ある種の未開人が、自分たちは数個の連結した、しかし異なった部分から成り立っていると感じていることを示している。」(P24)

(元型、本能のようなもの)
・「元型というものは、そのような(神話のような)モチーフの表象を形作る傾向である。」(P99 ()内は私の追加)
・「元型とは実際、本能的な傾向性であって、鳥の巣を作る衝動であるとか、蟻が組織化された集団を形成するのと同じように、顕著なものである。」(P100)

(心の歴史、内的な力)
・「心は、今まで長く発展してきたように、これからも発展し続け、こうしてわれわれは、外界からの刺激はもちろん、内的な力によっても動かされているのである。
 これらの内的な動機は、深い源泉から生じるもので、意識によって作られるものでなく、その制御下にあるものでもない。古代の神話においては、これらの力は”マナ”あるいは精霊、悪魔あるいは神と呼ばれた。」(P122)

(自然との同一性と、科学の発達)
「科学的な理解が発達するにつれて、われわれの世界は非人間化されてきた。人間もはや自然のなかにつつまれていず、自然現象との間の情動的な”無意識的同一性”を失ってしまったので、宇宙のなかに孤立していると感じる。自然現象は徐々に象徴の隠れた意味を失っていった。雷はもはや怒れる神の声ではなく、稲妻はその復讐の飛び道具ではない。河は河の精を持たず、樹は人間の生命の原理ではなく、ヘビは知恵の具現者ではなく、山は洞穴の化物の住処ではなくなった。もはや石も植物も動物も人間には話しかけてこず、人間のほうも、聞くことができると信じてそれらに話しかけることをしなくなった。人間と自然との触れ合いはなくなってしまったのだ。それとともに、その象徴的な結合が生みだしていた深い情動的エネルギーも、消え去ってのである。」(P145)
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以上、私が理解でき古代人の心の表象について書いてあると思うところを抜きだした。()の小見出しは私が付けたものである。

(ここまでのまとめと、私の考えたこと)
1)未開人(適当な言葉でないと思うが、本文で使っているのでそのまま使う)は、自然との無意識的な同一性を持っていた。それが、トーテミズムの源である。
2)人間は、本能的な心の動きを持つ。それをユングは「元型」と名付けた。それは、古代神話では、「精霊」とか「神」の持つ力となって現れた。「精霊」、「神」の持つ力は、人間の「元型」のもつ力と同じもの、あるいはコインの裏表のようなものだと言っている。

3)科学の発達、古代人にとっては知恵の発達によって、自然との無意識的同一性は失われて行った。自然へ理解が深まっていくにつれ、その振る舞いの予測が出来るようになり、そうして一つずつ無意識的なものの外界への表れが失われて行ったのだろう。古代人の農耕の開始は、自然への働きかけとその予測を彼らにいやおうなく考えさせ、自然から超自然的な観念を奪って行ったのだろう。

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U 古代神話と現代人 ジョセフ・L・ヘンダーソン

本文は、神話ストーリーが「元型」の現れであるということを説明している。よくわからないところがあるので省略。

下の十字架状の写真を見て、出雲の博物館で見た縄文時代の土偶を思い出した。ユングのいう「元型」は、人類共通なので、その表れも共通なものがある。ヨーロッパと日本と、遠く離れていてもおなじようなものが現れる。


ギリシャの豊饒の女神(B.C.2500年)で十字架状の彫刻(P163)


縄文時代の土偶 (島根県立古代出雲歴史博物館 展示品)

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(おおきなまとめ)
古代人が、「神」、「精霊」を持ち出してくる心の動きを知った。それは、人間が本能として、古い脳の中に持っている「なにか」に基ずいている。古代人は、その力に従って、自分たちの「習俗」を作り「神話」を作った。

古代人の持つ自然との「無意識的同一性」を知った。シャーマンは、シャーマンのふりをしているのではなく、その時は本当に、鳥になり、精霊になっている。
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そろそろ、土偶、銅鐸については、終わりにしようと思う。
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posted by tamatama at 22:31|   土偶/銅鐸 2011年12月30日
銅鐸と古代壮族文化・習俗
古代壮族(チワン族)に関する中国資料をインターネットで探し、翻訳ソフトにかけて読んだ。銅鐸絵柄のルーツとの関連を伺わせるものがあった。

(中国資料を読んでの私なりのまとめ)
1)古代壮族は12氏族あって、それぞれがトーテムを持っていた。鳥、魚、蛇など。稲作の伝来と共に、それらを崇拝する習俗も同時に日本に伝わってきたのではないだろうか。

2)蛙は、特に稲作に重要な雨、水と関連したものとして崇拝されていた。蛙は、それ以前からも、生殖力が旺盛なことから、繁栄をもたらすものとして崇拝されていた。

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1)について
(古代壮族の神話)(中国資料から)
壮族の創生神話では、次のように語られている。大昔、世界は”大きな卵”であった。それが、三つに割れて、天界、地界、水界ができた。そこでの神が、雷(いかづち)、鳥、蛟竜(みずち)である。その後、森林をおさめる虎が、加わり四神となった。

(古代壮族の氏族社会)(中国資料から)
古代壮族は、多くの氏族に分かれており、それぞれが氏族のトーテム(崇拝する生物)を持っていた。それらは、動物では、鳥、蛙、羊、わに、魚、水牛、黄牛(おうぎゅう、こうぎゅう:東南アジアの農耕用牛)、虎、犬、蛇、亀、スズメバチ、鹿、狼、豹、犀馬(?犀牛ならサイ)、猪、熊など。植物では、竹、たけのこ、森林、楓、ガジュマル、木綿、瓢箪、茅、樟などであった。鳥は特に、鵜、鷹、鷺、大雁、烏、鳩などであった。

彼らは、鳥族、蛙族などと呼ばれていた。互いに争いを繰り返し、有力な12氏族にまとまっていった。蛟氏族、水牛氏族、スズメバチ氏族、トノサマガエル氏族、羊氏族、魚氏族、鳥氏族、虎氏族、竹氏族、淵氏族、黄牛氏族、蛇氏族である。この中で、鳥氏族は、天の神、竜王と関係があるものとして強大な力を持った。銅鼓上面の太陽12光芒は、この12氏族に対応している。

(壮族トーテムの日本への伝播)(以下は、私の想像)
日本の最古形式の銅鐸、井向2号銅鐸には、鹿、蛙、亀(スッポン)、カマキリ、トンボが描かれている。それらの絵は、全く関連なくただ並べられているだけのように見える。これらの絵は、遠く中国南部モンスーン地帯で、稲作を始めた人々のトーテムの残像ではないだろうか。

それでは、トンボとカマキリは、ということになるが、稲作が伝わって銅鐸が作られるようになるまでに、同じような習俗のもと、日本で新た加わったのではないだろうか。
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2)について
(蛙崇拝文化は、壮族の生殖崇拝文化の現れ)(中国資料から)
生殖崇拝は原始社会の人々の基盤となる信仰であった。原始の人々は、女性の出産を見て、女性に新しい生命を生み出す力があることを知った。そして、人口を増やすために、女性の生殖を崇拝した。

蛙の体型と強い生殖力を見て、原始壮族の人々は蛙を女性の化身とみなし、生殖崇拝の対象とした。蛙の滑らかで大きな腹は、妊婦の腹を連想させ、蛙の口は女性器を連想させた。蛙の繁殖力はとても強く、春に一雨あれば、無数の子供ができるのを目の当たりにして、蛙を繁栄、豊穣のシンボルとして崇拝の対象にした。

(稲作の豊穣を願って、蛙が崇拝された)(中国資料から)
銅鼓の上の蛙像は、壮族の稲作の豊穣を祈ったものである。雨は、原始、古代の人々にとっては自分ではコントロールできないものとして、自然の力に頼るしかなかった。雨の訪れと同時に大きな声で鳴く蛙は、雨をもたらす力のあるものとして崇拝の対象となった。蛙は、雷神の子とみなされたいた。

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「布洛陀   銅鼓」をキーワードに、検索すると、たくさんの中国資料がヒットした。中国では、壮族文化が広く研究されていることを知った。内容は、十分把握できないが、その内容は日本の原始・古代の文化、習俗を連想させるものも多く、日本にも大きな影響を及ぼしているらしいことが伺われた。

(関連)
中国壮族/銅鼓文化
カエルが支えた古代農法
銅鼓の祭りと銅鐸のマツリ

(2011.12.31 追記)
「そこでの神が、雷(いかづち)、鳥、蛟竜(みずち)である。その後、森林をおさめる虎が、加わり四神となった。」について。四神は、中国の青龍、白虎、朱雀、玄武を連想させる。稲作起源は壮族の住むこの地域が最も古いと考えるならば、「布絡陀」神話による四神が、中国へ広く伝わったとも考えられる。

(2012.12.3 追記)
参考にした中国語資料(一部)
1)壮族通史?(第二篇 氏族部落?代)第1章 社会??和社会?展
http://www.zhuangzu.nev.cn/a1article-612873-1.html
2)《?兵?洛陀》密???
http://luoyue.net/show.aspx?tid=481
3)百度百科 壮族
http://baike.baidu.com/view/2381.htm#1
4)百度百科 布洛陀
http://baike.baidu.com/view/67258.htm#1
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posted by tamatama at 18:24|   土偶/銅鐸 2011年12月28日
中国壮族/銅鼓文化
壮族とは、チワン族の中国での呼称。壮族は、中国の最南部にある、広西チワン族自治区、雲南省を中心に、中国少数民族中最大の1800万人が住んでいる。銅鼓を使う祭礼が、今も行われている。

中国国営放送は、壮族の伝統、文化、習俗を12の項目に分けて放送した。第一回の内容が「銅鼓文化」で、銅鼓の歴史、紋様の解説、銅鼓の祭りの様子などを解説している。映像の中国語キャプションを見て、大意を掴んで掲載した。

[?哉?僚 720HD] 01 - ?董 - 壮族?鼓文化 (1/2)
[?哉?僚 720HD] 01 - ?董 - 壮族?鼓文化 (2/2)
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<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/2KHNetjx6D8" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(銅鼓について)
・銅鼓は、青銅器文明の最後の生きた化石のようなもので、壮族は銅鼓の鋳造、使用を最も早く始め、青銅器文明の創造者となった。
・雲南省文山の壮族苗族自治州の壮族は、今に至るまで古い伝統文化を伝えており、その典型的なものが銅鼓文化である。それは、記念日や祭祀、結婚・葬送で行われ、人々の生活は銅鼓とは切り離せない。
・文山壮族と古代銅鼓民族とは、深い関係がある。
・2000年あまり前、文山地区には「句町」という強大国家があった。その創始者は古代の百越族の一部族で、それが文山壮族の祖先に当たる。

(銅鼓上の絵柄について)
・銅鼓上面には、太陽が描かれ、その周りを回るように多くの鷺(さぎ)が描かれている。その鷺は、大きな意味を持って、描かれている。
・太陽の周りの鷺は、一般的な動物、一般的な崇拝物として描かれているのではなく、極めて重要な崇拝物として描かれた。
・銅鼓面上の羽人と鷺の図案は、最古の銅鼓民族が鳥を崇拝する民族であったことを示している。
・鳥は、彼らのトーテムであった。

(銅鼓の変化)
・銅鼓は、誕生以来2000年あまりの間、その形、紋様、根拠とするものを変えてきた。銅鼓は、8つに分類され、文山州には、そのすべての形式の銅鼓がある。
・文山地区で銅鼓が誕生して以来、絶えることなく伝承されてきた。文山地区は、銅鼓の起源の地の一つである。
・現在の文山壮族の生活には、古代銅鼓民族の生活が伝わっている。
・それを実証するのに必要な証拠ならば、ここにある。

(一対の銅鼓、公母鼓)
・現在、結婚などの重要な場面では、一対の銅鼓がならされる必要がある。

−この後、一対の片方の銅鼓を他のところで発見する話が続く。戴家と斐家はかって、一族であって、家が分かれたときに一対の銅鼓は別々に所蔵されるようになった。
 −銅鼓は、公鼓と母鼓とが一対で、母鼓が大きい。

(銅鼓上面の太陽図柄の放射線=光芒の数)
・太陽の光芒は12であり、そして12の異なった動物が描かれている。
・一度、壮族の葬送の儀式に立ち会ったことがある。壮族の”布摩(シャーマン)”は、死者の霊魂を送る際に、12の道、12の橋、12の村、12の門、12の・・・を通ることを必要とした。
・壮族は、人には12の魂があると認識している。
・銅鼓上面の太陽光芒の数と、壮族の12と言う観念とは符合している。
・しかし、ここに至るまでには、7や8のものや、21のもの、またまったく光芒がないものもあった。
・太陽光芒は、春秋時代中期に現れ、晩期になって12となった。

(12の意味)
・12は、12大部落をあらわしている。
・「布洛陀経詩」には、水牛部、黄牛部、雷部、蛟竜部、羊部などがある。壮族は、はじめ一部族であったが、発展して12部族になった。これが今に伝わる壮族部族である。12大部落は、われ等の祖先であり神聖なものである。

<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/hbef7qqziJg" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(太極図と三鳥共一嘴図)---(さんちょうきょういっしず?)
・太極図は魚を表している。
・三鳥共一嘴図は、3羽の小鳥が嘴を共用して描かれており、これは壮族特有の三界観を表現している。
・三界観は、壮族の古来からの宇宙観で、天、地、水の三界を表し、それぞれ上界、中界、下界である。
・銅鼓上面の上界には、太陽、星、雲彩が描かれ、側面の中界には人や各種生き物が描かれ、台座の下界には、海が描かれている。

(青蛙)
・銅鼓上面には、さまざまな動物が装飾されている。
・青蛙は、百越民族にとっては、雨や水をもたらすものと考えられている。青蛙と雷公とは強い関係があるとみなされてる。
・壮族の社会で、青蛙が崇拝されていた証拠がある。(蛙の踊り)

(銅鼓の埋蔵)
・銅鼓には、家に代々伝わる相伝銅鼓と、地中より掘り出された出土銅鼓がある。
・ほとんどの出土銅鼓は、欠けている。
・出土銅鼓は、墓葬のところからは出ない。
・倍葬品として埋められたものではない。
・専門家は、古代は戦争、天災、人禍が多く、隠匿のため神器であった重い銅鼓を地下に埋めることが壮族の習慣であったと見ている。

(祭鼓)
 
−この後、銅鼓の祭りの場面が続く。

・祭りでは、朝夜明け前に川の浄水をとってきて、それで銅鼓を洗い、銅鼓に霊気を与える。
・最古の祭鼓は、「血祭」であった。動物の殺傷また奴隷、俘虜の殺傷が求められた。
・今は、血を見ることだけのものになっている。
・長老が銅鼓製作の全工程を表した経文を読む。銅鼓文化は、こうして伝えられた。
・祭鼓の最後に、来年の吉凶を占う儀式が行われる。
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posted by tamatama at 16:00| Comment(0) |   土偶/銅鐸 2011年12月17日
カエルが支えた古代農法
弥生銅鐸のカエルの画像について、そのルーツを中国南方の銅鼓に求めたり、中国古代の神話に求めたりしてきた。なぜ、弥生人が銅鐸にカエルを描いたのかは、文字のない時代のことであり、結局確かなことは分からないだろう。

(農耕技術の視点からカエルを見る)
少し視点を変えて、カエルが古代人にとってどういったものであったのか、農耕技術の面から考えてみた。(タイトルに古代農法と、大げさな表現をしたのは、格好良いので使ってみたかったから。古代農法とは、ここでは稲作の技術、鍬や鋤に代表される農耕道具とその使い方、田の作り方や水路の作り方、種まきなどのスケジュール管理などである。)

(稲作スケジュール管理にカエルを使っていた)
弥生人は、カエルの出没、産卵、おたまじゃくしへの孵化、また田の畦でガーガーとなく時期などを稲作のスケジュール管理に使っていたのではないだろうか。その頃は、暦のない時代であったので、水がぬるんでくる春になって、いつ籾を撒くか、いつ苗代つくりをして、いつ田植えをするかといった時期を、何月何日などとは決められなかった。肌で、気温を知り、水に手をつけてその水温を確かめながら、その時期を決めていたのだろう。種まきの時期、田植えの時期は重要なので神経を使ったに違いない。そこで、出てくるのがカエルだ。カエルの生態を長年見てきた古代の弥生人はカエルが温度、特に水温に敏感なことを知っていたに違いなく、カエルの行動を農作業のスケジュールを決める参考にしていたと考えてもおかしくはない。

(その能力を超不思議なものと感じカエルは神格化された)
要するに、カエルは農作業のスケジュール管理に使われていた生きた道具だったのである。カエルが、もしいなくなってしまったら、農作業そのものができなくなってしまう。それほど、重要であるから、大事にされ、そしてカエルに教えてもらったスケジュールにしたがって稲作を行い、そしてそれが成功し、時に豊作になることを繰り返すうちに、本当のところはカエルにとっては単に自らの生き残りのために強化されたにすぎない温度センシング能力を、人は超不思議なカミのような力と感じて、次第にカエルが神格化されていったのではないだろうか。

ヘビは春の訪れを知らせる生き物、亀、イモリも同様であった。カマキリは、夏の時期を知らせる生き物、トンボは秋の訪れを知らせる生き物として尊重された。飛躍があるようだが、シカの角が落ちるのも、春の知らせの象徴として感じられたのかも知れない。もちろん、これらの動物の旺盛な生殖能力や、害虫を取るという実利的な生態も、古代人が魅せられたものではあったろう。

(稲作が、「科学」を生んだ)
狩猟・採集・漁労生活の時代は、生活するうえで、さほど細かいスケジュール管理は必要なかった。しかし、稲作は細かいスケジュール管理が必要であった。最初は、失敗もあっただろうが、カエルなどの生態・行動から学んで、次第に知恵をつけ、1年にわたる細かいスケジュール管理ができるようになったに違いない。それは、弥生人の「科学」とも言ってよいものだった。

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関係する資料を2つ示す。

(トノサマガエルの所見日)
春になってトノサマガエルが、はじめて見られる時期を統計的に把握したもの。こういったものが、あること自体が、カエルがカレンダー代わりに使われていたことの現われであろう。今では、桜前線と同じで、現代人の楽しみの領域のものになっているが、かってはもっと身近であり、大切なものであったに違いない。


トノサマガエルの所見日
(出典:小学館 日本大百科全書 「蛙」の項)

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(U字溝に落ちるカエル)
近年、圃場(ほじょう:ここでは水田のこと)整備が進んで、カエルが住みにくくなってきている。その一つが、産卵期と変態期に林と水田を行き来するニホンアカガエル(足に吸盤がない)が、林と水田の間にできた人工構造物のコンクリート製U字溝に落ちて流されてしまうことだ。春になって、産卵のために水田へいこうとしても到達できないために数が減っていくことになる。U字溝にふたをすれば、ニホンアカガエルの落下を防ぐことができるのではないかと、ふたのある部分とない部分を比較して、その差を見ようとした報告があった。


調査水田のニホンアカガエルの卵塊の分布
左に林がある。ここは、生態保全区間で、ニホンアカガエル、ニホンイモリをはじめとする両生類の生息が確認されている。

A−1、A−2がふたのあるところで、ニホンアカガエルが水田に無事到達でき産卵できていることを示す。B−1、B-2は、ふたのないところで、ニホンアカガエルが、U字溝に落ちて水田に到達できていない。(出典:「カエル類のU字溝への落下と再生産に関するフタの効果」中村 寛ほか 宇都宮大学農学部大学院)

この報告は、生物多様性の低下を問題としたものであるが、自然と一体となっていた、かっての農作業環境を示すものとして掲げた。古代人は、カエルの産卵時期を、注意深く見つめていたに違いない。

カエル類は夜間に移動をすると、この報告にあった。そんなことも、「忽然と現れるカエル」のイメージを醸しだし、神秘性を高める要素だったかもしれない。
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(付言)
ここでは、特に生き物の生態・行動に焦点をあてて考えた。スケジュール管理に、月の満ち欠けや、太陽の運行も使っていたであろう。それらが、総合されて時間の観念・スケジュール観念が形作られていったと考えられる。やがて天文学が発生し、暦が作られていった。しかし、春を知らせる温度センシング能力はやはり「カミ」のように尊重され、その役割を終えるのは温度計ができるまで待たなくてはならなかった。

また、ここでは日本での稲作をイメージして考えたが、中国でも同じようなものだと思う。中国では、月とヒキガエルがセットで、神格化されている。インドとか、メソポタミア、エジプトではどうなのであろうか。
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posted by tamatama at 20:57|   土偶/銅鐸 2011年12月11日
銅鼓の祭りと銅鐸のマツリ
2011年12月8日
九州国立博物館訪問


九州国立博物館


4階展示室入口
 
博物館の展示室の一つは「かね♪すず♪たいこ」と銘打って、銅鼓と銅鐸の響きと、銅鼓が使われる儀式に焦点をあてている。銅鼓の絵を間近に見ることができた。農耕技術の伝播と、農耕儀礼の伝播について考えた。

(「かね♪すず♪たいこ」展示室の紹介)
展示室には、銅鼓が5つ、銅鐸が2つ展示されており、そのうち、2つの銅鼓と、2つの銅鐸は手で触れtたり、鳴らしたりできる。展示室の奥に、大スクリーンがあり、「アジアの青銅楽器」と題した中国南部・ベトナム(?)で撮影された映像が、映し出されている。1つは、葬式の様子で銅鼓が大地のうなりのように、連続して音を発している。もう一つは、男女の集団が銅鼓の響きに合わせて隊列を組んで踊る様子を紹介している。展示室の中央には、葬式の映像に出てきた「立柱」(天に呼びかけるための高い飾り物のついた柱)が展示されている。(ここだけ、展示室の趣が異なる。銅鼓と銅鐸の関連を示唆する展示だが、その説明は控えめだ。)

(展示室の銅鼓の絵)
銅鼓1)上面は、中心に太陽。そのまわりには、祭礼の様子を表していると思える絵がある。羽人、高床の建物、日本の銅鐸の機織の姿勢の人の絵など。その外側には、連続した渦紋、その外側はたくさんの羽人、そして、また連続渦紋があって、その外側にシカの列、また連続渦文があって、様式化された鳥が描かれている。鳥は、首の短い鳥で、銅鐸に見られる、水鳥とは異なる。側面は、羽人が数人乗った船が大きく4つ描かれている。

銅鼓2)上面に蛙が、四隅に乗っている。古代出雲歴史博物館は、全部で4匹であったが、ここのは生殖行為中のもので、それも大きな蛙に2匹の蛙が背中に乗っている。銅鼓には、側面に吊り金具が鋳出されており、この蛙は装飾としてのみ鋳出されたものである。

ここの銅鼓に、魚が描かれていないか探したがなかった。

(銅鼓の祭りが日本に伝わるまで)
中国南部で農耕が始まった頃から使われている銅鼓の絵は、その頃の人々の精神世界を表している。農耕儀礼だけでなく、祭祀一般に広く銅鼓が使われていたようだ。銅鼓には、銅鐸に見られるような脱穀のような直接、農耕を示すような絵は描かれていない。

稲作は、この中国南部から伝わった。稲そのものと、稲作技術、稲作道具は、中国大陸を経て、朝鮮半島から人の移動と共にもたらされた。千年以上もの伝播の間に、稲の品種も、稲作技術も、稲作道具もその土地や、気候に合わせて少しづつ変化していったことだろう。しかし、稲というハードと、米の収量確保という一義的な目標のある農耕技術は、自然法則に則ったものであり、基本のところは変化しなかった。

一方、農耕儀礼は稲作技術とセットとなって伝播していったが、その内容は稲作技術といった自然の法則に縛られたものではなかった。思うに、当時の人々にとっては、春になって種まきをすることと、カミを田の近くに呼び寄せ収穫の成功を祈ることは、同じレベルの事柄であったろう。籾を蒔くときの水温に気を配るという技術的なことと、その時の祭りを言い伝え通りに、順序を間違えずに行うという技術的なことは、同じレベルで気を使わなければならないことだったに違いない。

しかし、どちらがより強く守らなければならないかということになれば、祭りの作法よりも、収量に直接関係する稲作技術であった。中国南部から、農耕技術と、農耕儀式が同時に発したとしても、伝播の過程で農耕儀礼は、変容していった。付け足されたものもあっただろうし、形骸化していったものもあったろう。消えてしまったものもあったに違いない。

(銅鼓の絵と銅鐸の絵)
これまでに見た銅鼓の絵:カエル、シカ、羽人、船、トリ、魚、腰掛けた格好の人。
これまでに見た銅鐸の絵:シカ、カメ(スッポン)、カエル、カマキリ、トンボ、水鳥、イノシシ、イヌ、カニ、イモリ、ヘビ、アメンボ、船、脱穀、倉庫、狩人、争いをする人、腰掛けた人、船

銅鼓と銅鐸の絵を比べて、一番似ていると思ったのは、船の絵。なんというか、雰囲気がそっくり。高床の建物もよく似ている。シカの絵も、比較的よく似ている。トリの絵は、全く似ていない。トリは、鳥という観念だけが伝わったのだろう。

カメは、中国大陸で付け加えられ、カマキリ、トンボ、アメンボ、イモリは日本のオリジナル、といろいろ思いは膨らむ。

中国には、朱雀やカササギが稲穂を銜えてきて、落としたことが稲作の始まりだとの神話がある。日本では、水鳥が魚を銜えてきて落としている。どうしたものか、稲穂が魚になってしまった。

(銅鐸のルーツは銅鼓ではない)
銅鐸のマツリのルーツは、銅鼓を農耕儀礼に使っていた中国南部・東南アジアにあるかもしれないが、ハードとしての銅鐸のルーツは銅鼓ではないように思う。やはり、中国にあった馬齢のようなものが音のするものとして朝鮮、そして日本に渡ってきて発展したものだろうと思う。

辺境の地、日本で銅鐸は異常とも思えるほど大きくなったり、装飾豊かになった。日本では、なんでも一直線に、大きくなったり、細密になったりするようだ。文化の混合が少ない、日本の地の特質かと思う。
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posted by tamatama at 12:50|   土偶/銅鐸 2011年12月03日
銅鐸/描かれた絵のルーツ
(銅鐸に描かれた動物)
現在、約500個の銅鐸が発見されており、そのうち絵が描かれているものは60個あまりである。絵が描かれているものは少ないが、その絵には当時の人の思い、祈りが表現されている。

1)最も古い形式の銅鐸、T式(菱環紐式)の井向2号銅鐸には、シカ、カメ、カエル、カマキリ、トンボ、トリが 各1、描かれている。
2)次の世代の、U式(外縁紐式)、V式(扁平紐式)銅鐸は、絵画銅鐸が多く、上の動物のほかに、イヌ、イノシシ、サル、カニ、イモリ、ヘビ、アメンボ(クモ)が描かれている。シカの数が圧倒的に多く、次にトンボ、トリ、イノシシ、サカナが多い。

3)最も遅い時期に作られた銅鐸、W式(突線紐式)の悪ケ谷、小野、敷地1号、木船1号、大岩山2号銅鐸には、トリ、シカが描かれている。シカは、悪ケ谷銅鐸のみに描かれている。
4)サカナを咥えたトリは、V式、W式の銅鐸に描かれている。

(最も古い形式の銅鐸の絵のルーツ)
最も古い形式の銅鐸の絵は、動物のみが単品で描かれており物語性がないように見える。稲作発祥の地、中国にそのルーツがあるのではないかと本や、インターネットで調べてみた。

1)カエル とサカナ

銅鼓(中国南方)
古代出雲歴史博物館 展示品


銅鼓(中国南方)の上面のカエルの鋳出しと、サカナの文様
古代出雲歴史博物館 展示品

稲作発祥の地である中国南方(長江流域?)の銅鼓には、カエルが4匹、鋳出されている。また、上面に魚が同心円状に連続して文様をなしている。

カエルは、中国雲南省では、カメ、ヘビ、サカナなどと共に大地を支えている動物とみなされていたらしい。また、カエルの背中は、女性器にたとえられ、生殖のシンボルとみなされていたようだ。古代中国には、月にカエルが住んでいるとの神話がある。

日本では、縄文時代の深鉢土器にカエルを表現したものがある。

2)カメ
古代中国では、スッポンが島を背負っているとの神話があるらしい。古代中国には「天円地方」(天は丸く、地は四角い)の思想があり、カメは背中が丸く、胸が平たく四角いためカメがその思想を体現しているとみなされ、霊性のある生き物とされた。カメは、地上と水界の媒介者とみなされていた。

長寿であることも、霊性のある生き物と思われた要因であろう。

3)トリとシカ
トリは、天界と地上界を結ぶ生き物と思われていた。シカは、日本では朴骨でその肩甲骨が占いに使われたように、霊性のある生き物とみなされていた。

トリ、シカは、サカナとともに、最も遅く作られたW式銅鐸の絵に残った。しかしその絵は、おざなりで、本来の意味合いは失われていたように思える。

下は、弥生土器に描かれたトリ、サカナ、シカである。かっての祭礼の残影なのであろうか。


弥生土器に描かれたトリとサカナ
(橿原考古学研究所付属博物館 展示品)


弥生土器に描かれたシカとサカナ
(橿原考古学研究所付属博物館 展示説明)

(銅鐸の絵解き)
最も古い形式の銅鐸、井向2号銅鐸に描かれた絵画は、一つ一つが霊性を持った生き物と考えられていたようだ。そのルーツは、稲作発祥の地にあり、それが稲作とともに伝わってきたのであろう。

その後、日本で発展した銅鐸はその形を変え、また描かれた絵の内容も変化した。そして、次第に絵が描かれなくなり、最後に残ったのは、サカナを咥えたトリと、シカであった。絵の内容の変化や、絵が描かれなくなったことにも、祭礼のありようの変化が示されているのだろう。

中国古典や神話を調べたり、更には日本の古典を調べたりするのは大変で、もうこれ以上は手に負えない。銅鐸の絵の絵解きは、この辺で終わりとしよう。
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posted by tamatama at 20:35|   土偶/銅鐸 2011年12月02日
銅鐸/鳥と魚の絵の意味
銅鐸に描かれている鳥と魚が何を意味するかの解説があった。

「銅鐸から描く弥生時代」佐原 真、金関 恕 編(2002年 学生社発行)所収の報告・論文 
「マツリの変貌−銅鐸から特殊器台へ−」寺沢 薫
  

鳥が魚を銜えている絵(右上の絵)
桜ヶ丘4号銅鐸(出典:奈良県立橿原考古学研究所博物館 特別展図録 「弥生の里−くらしといのり−」2011年発行)


人が魚を放している絵(左上の絵)
桜ヶ丘5号銅鐸の絵
(出典:同上)

寺沢氏の報告、論文は、
銅鐸の絵は、風物スケッチなどではなくマツリの重要なイデアを表現している。そして、鳥が魚を銜えている絵、人が魚を放している絵は、銅鐸のもつ、もっとも重要で基本的な観念、あるいは神話世界を表している、
とした上で、次のように述べている。
−−−−−−−
(鳥が魚を咥えている絵の意味)
「鷺は春に飛来し、収穫まで水田で成長する稲の穀霊を守る鳥としてはもっともふさわしい鳥です。鷺が穀霊そのものであるとすれば、鷺が魚を銜え落としている図は、穀霊が地(水)霊である魚を得て大地(水田)に落とす姿であるといえます。つまり、地力を増大して穀霊を育てるという観念表現といえるでしょう。また、鳥(男性)と魚(女性)の交合を表現しているのだという中国の研究者もいます。「鳥銜魚」の図像は、中国でも新石器時代中期以来の土器や銅鼓などの青銅器、漆器などに多用されていますし、甲骨文『詩経』などにも儀礼として記述されています。」(一部編集)

(魚を放す人の絵の意味)
「I字形の器具を持ち、三本指の手から魚を落とす図像は、鳥が魚を銜え落としている図像の別表現といえるでしょう。三本指の人は明らかに鳥=穀霊と化したシャーマンです。魚がいるのでI字形具は漁具ではないかという説もありますが、そのような漁具は思いあたりません。それでは「I」はなんでしょうか。「I」は甲骨文や金文の「工」であり、白川静博士によれば工には工作の巧と、呪具としての工の二つの字義がありますが、後者であることは明らかです。甲骨文や『礼記』、『詩経』の儀礼からも「工」が大地に気を落とし、二次元世界を交合する呪力表現であることが読み取れます。「I」字形具が織り具にある「かせ」という説もあり、間違いではないのですが、この本質を無視してはなりたちえません。」(一部編集)
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posted by tamatama at 21:39|   土偶/銅鐸 2011年11月30日
銅鐸/弥生人の動画感覚
銅鐸の絵には、シカの群れや魚の群れが描かれている。弥生人が、この絵に込めた意味合いは何だったのだろうか。

(魚の動き)

桜ヶ丘4号銅鐸の絵
(出典:奈良県立橿原考古学研究所博物館 特別展図録 「弥生の里−くらしといのり−」2011年発行)

赤線枠の中に魚が3匹描かれており、一匹は鳥に咥えられている。それはいいのだが、下に描かれた2匹は何なのだろうか。これは、同じ時間に魚が3匹いるのではなく、動きを表しているのではないだろうか。鳥に咥えられていた魚が下に落ちて行くところを描いているように見える。縦に3匹の魚が並んでいるのは、群れを描いたにしてはいかにも不自然である。なぜ、鳥が咥えた魚を放しているのかはわからない。何か、意味がありそうにも思える。

同じような絵は、他にもある。


桜ヶ丘5号銅鐸の絵
(出典:同上)

赤線枠の中に魚が3匹描かれている。道具を持った人は、機織りとも漁師とも、またシャーマンだとも言われているが、ここでは漁師だとしよう。3匹の魚は、漁師の手元を離れた魚が水面に落ちて行き、水の中で去っていく絵とは解釈できないだろうか。

このように、複数の魚が並んでいる絵は、一匹の魚の動きを表しているように見える。これが弥生人の動画感覚では、なかったのだろうか。

(シカの動き)
次に、複数のシカが並んで描かれている絵を見てみよう。


桜ヶ丘1号銅鐸の絵
実物写真はB面のみ
(出典:同上)

青枠内に、シカが3匹と狩人が2人描かれている。シカの時間は、右から左へ流れて行く。即ち、遠くで動いているシカを、狩人が弓で射て真中のシカの時間になり、矢が背中に当たって狩人に捕えられたという時間の経過を示しているのでは、ないだろうか。更に、想像をたくましくすれば、左の二人の狩人も、時間の経過を示しており、弓を構えた狩人が矢を放って、シカを捕えたという動作を表しているようにも見える。

同じように考えると、赤枠内は次のように説明できよう。ここには、右にシカ2匹、真中に猟犬3匹、そして狩人が描かれている。これは、猟犬2匹あるいは3匹を従えた狩人が、遠くに走り去るシカを射止めようとしている絵であると。

(魚の群れ)

恩地(垣内山)銅鐸
(出典:平成22年度 荒神谷博物館特別展 「銅鐸の中の動物たち」)

この絵は、これまで魚の群れのように考えていたが、魚の動きを表しているのだとみると、そう見えなくもない。頭としっぽが、このように接近しているのは、動きをリアルに見せる弥生人の工夫ではなかったのかと思ってしまう。

(弥生人の動画感覚)
銅鐸の群れのように連続する絵は、これまでも動きを表しているのではないかといわれていた。鳥と3匹の魚の絵を見て、連続する絵は弥生人の動画だと確信した。この瞬間、弥生人と同じ気持ちになったようで、少し気分が高揚した。

(気になること)
弥生人にとって、「シカは捕えるモノ」、「魚は放すモノ」だったのだろうか。そして、魚を咥えた鳥の構図には、どういった意味があるのだろうか。この構図は、近畿式や、三遠式と言われる弥生時代のあとのほうで作られる銅鐸にまで残っている。鳥が、天と地を結ぶ使いだと考えられていたのなら、魚は地と水の世界を結ぶ使いとでも考えられていたのであろうか。
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posted by tamatama at 16:38|   土偶/銅鐸 2011年11月24日
稲作が変えた祈りのかたち
先に、縄文時代の土偶は、家族の安産、病気平癒の祈りに使われたのではないかと述べた。(「土偶で祈る安産・病気平癒」)弥生時代の銅鐸は、共同体の豊穣を祈った祭祀に使われたことはほぼ間違いない。農耕は、人々の暮らしぶりを変えただけでなく、人々の考え方、祈りのかたちも変えた。

(狩猟・採集・漁労と農耕)
         狩猟・採集・漁労      農耕
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食料       木の実・肉・魚      米・肉
人口       小             大
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
自然への    小             大
働きかけ度 
個人の能力  大(森の知識、      小(灌漑施設作り、
の寄与度     弓の技術)        稲作りの労働力) 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
自然供給力  供給力>食料       供給力=食料
と食料需要  →供給力=食料      →供給力>食料
自然の影響  小(その日暮らし)    大(植物は弱い。日照り。
                          洪水で全滅)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
暮らしの    小(自然と一体)     大
緊張感
自然への    恵みの元・感謝     働きかけ対象・制御不能対象     
想い      (積極的・一体感)     (受動的・対立的)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

1)自然を働きかけの対象とみるようになって、それまでの自然との一体感が薄れていった。
2)狩猟・採集は、個人の技量により成果が大きく異なるため、個人の存在感が大きかったが、稲作では集団のなかの労働力の一つとなってしまったため個人の存在感が相対的に小さくなった。

3)稲作の出来具合は、人の制御不能な天候、虫害などの影響が大きく人の力量が自然の力に比べ小さく感じられるようになった。
4)狩猟・採集生活の頃より、人々の暮らしは「お天気まかせ」と言う意味で受動的になった。また、自然に対しては、距離を置いた関係を意識するようになり、さらには、お互い対立する緊張関係であると感じるようになった。

(農耕で変わった祈り)
人と自然がお互い対立し、緊張関係にあり、そして人の力が自然に比べ、時に圧倒的に小さく感じられるようになったことが、自然に対しては、お願いするしかないというふうに、祈りのかたちを変えてしまった。自然を治める超自然的な霊力、カミの存在を信じて、それにお願いすることとなった。

(農耕文化は対立、受動的文化)
農耕文化は、自然との調和の文化ではなく、自然との対立の文化である。対立と言っても対等ではない。自然の猛威におびえる、受動的な姿勢がその基本にある。
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posted by tamatama at 18:16|   土偶/銅鐸 2011年11月08日
土偶で祈る安産・病気平癒
縄文時代の人々は、自然の恵みを得て生活をしていた。人口は、東日本を中心に、紀元前8100年頃で20万人、同じく1800年頃で60万と推定されている。紀元前350年頃に、稲作が伝わり、人口は急激に増加した。奈良時代の725年には、450万人を数えるまでになった。
人口の推移を、グラフにした。


日本の人口の超長期推移(縄文時代から奈良時代まで)
データは、「人口から読む世界の歴史」(鬼頭宏著 講談社学術文庫)P16、17より。ただし、稲作が伝わる紀元前350年頃まで、人口の急激な増加がないように描いてある。

縄文時代の日本の自然の食料供給力を草色の範囲で示した。稲作が伝わる前の推定人口をその供給力とした。50〜60万人である。

縄文時代の狩猟・採集による食料確保は、人口が少ない時代では自然の食料供給力に余裕があるため、さほど苦労をしなかった。家族の最大の関心は、子供の無事な出産と、その後の成長、そして自分たちの健康であった。土偶は、その祈りのために使われた。木の枝を組み合わせたような木の人形も使われたかもしれない。縄文時代の平均寿命は30歳くらいと推定されている。(前述書 P42)出産は危険であり、また乳幼児の死亡率も高かった。ひとたび病気になると、祖先からの言い伝えの処方はあったにしても、その力の及ばないことのほうが多かったに違いない。


土偶
壊された土偶の足、体
縄文時代晩期(1000〜400B.C.)
橿原市 橿原遺跡 橿原考古研究所付属博物館展示


土偶頭部
縄文時代晩期(1000〜400B.C.)
橿原市 坪井遺跡 橿原考古研究所付属博物館展示


鳥装のシャーマンによる祈り
橿原考古研究所付属博物館展示

稲作が伝わり、食料供給力が増大すると人口も飛躍的に増加することとなった。人口の増加とともに、人々の最大の関心事は、毎年の計画的な食糧確保に移った。自然の食料供給力を超えた「栽培による供給力」の上限が、生命の維持ラインになっているためなんとしても、人口に見合う栽培供給力=豊作を維持しなくてはならなかった。天候不順、害虫発生などへの対応は、神頼みしかなかった。

土偶を使った祈りは、家族の繁栄のためであったが、稲作が開始されてからの祈り、祭礼は集団の繁栄のためであった。その祈り、祭礼、そして「力」は、稲作と同時に日本に伝わってきたのではないだろうか。これまで聞いたことのない音を出す銅鐸は、その力を持っていると考えられたかもしれない。

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(2011.11.9 追記)
「アマテラスの原風景 原始日本の呪術と信仰」(塙選書99) 角林文雄 著 塙書房2003発行より引用。

「縄文時代の女神と弥生・古墳時代の女神
 縄文時代の社会には、女神像を信仰すれば狩りの獲物が増えると言うような思想はない。狩猟・採集・漁労を基本とする社会では、ある日に獲物が得られなくても次の日がある、というように考えるのであって、神に祈れば獲物が増えるとは考えない。獲物が得られるか得られないかは本人の狩りの技術とその日の運、不運によるのである。さらには、自然の脅威によって自分たちの食生活が直接的に脅かされるとも考えない。例えば、台風に襲われたときのことを考えてみよう。大きな台風がくると農耕社会では、風による被害、洪水による被害によって農産物が痛めつけられ、人々の生活は深刻な影響を受ける。自然の災害のもたらす被害は甚大なのである。ところが、狩猟・採集・漁労を基本とする社会では、台風が通り過ぎればそれで終わりである。次の日から狩りに出かける。魚を取りに出かける。そういう社会では食料獲得の過程において自然はさほど脅威とは感じられない。従って土偶は食べ物の豊かさを願うというようなこととは関係のない女神像である。

 弥生時代に入って、農業生産が経済の基盤になると、天候によって、また害虫の発生によって一年の収穫が大きな影響を受けるようになる。生育中の稲が台風で流されれば、旱魃で稲が枯れれば、次の年の食べ物がなくなって一族が全滅する。イナゴが発生すれば収穫は起きく減少する。天候も害虫も人間の努力によってはどうにもならないものである。だから、人事を尽くした上は神に祈るしか方法がない。つまりこの社会では、年毎の自分たちの生活基盤を支えるために強く神の加護を求めなければならない。そこでは女神は単にお産を助けてくれるとか家を守ってくれるとか、といった願いの対象ではなく、もっと深刻な意義を負っているのである。ここに縄文時代と弥生・古墳時代の信仰の本質的な差がある。弥生・古墳時代の人のほうが縄文時代人よりもはるかに強く神に祈り、必死の気持ちで信仰したと言えよう。」
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posted by tamatama at 14:59|   土偶/銅鐸 2011年10月31日
壊された土偶、銅鐸
なぜ、土偶は壊されたのか。意図的に壊された銅鐸は何を意味するのか。

「祭祀と供犠 日本人の自然観・動物観」(中村生雄 著 2001年法蔵館発行)を読んだ。私の理解出来る範囲でのまとめは下の通り。(序章より)

1)どのような文化も、そこで神と人とが一定の関係をとり結ぶためには、供犠(くぎ)行為が必要である。その供犠行為においては、神と人とを関係付ける第三項として、供犠動物や穀物の神饌のごとき自然物が必須のアイテムとして使用される。その役割は、それぞれの文化に応じて一様ではない。

2)狩猟牧畜を生業とする民族は、動物と人とを隔絶したものととらえており、その観念は神と人との連続性ではなく非連続性の観念を生み、動物供儀を「殺す」ことに主要な意義があった。

3)一方、農耕を主要な生業とする民族では、動物と人とを連続したものとみなし、その観念は神と人との差異を強調するのではなく連続したものであるとの観念を生むことになり、動物供犠を「殺す」のではなく「食べる」ことに主要な意義を見い出した。

さて、この本の序章に次のことが述べられている。(P12)
宗教改革以降の近代キリスト教は人間とキリスト(神)との連続ではなく、断絶を最大限強調するようになった。レヴィ=ストロースは『野生の思考』でこのことを、神と供犠執行者の間に、はじめいかなる関係も存在せず、そこに新たな関係を設定するのが供犠の目的にほかならないと言った上で、
「犠牲の神聖化によって人間と神との間に関係が確立されると、そのつぎに供犠の儀礼はその同じ犠牲を破壊することによって関係を断ち切るのである」
と述べている。

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この文章に触発されて、土偶の破壊、銅鐸の破壊について考えた。

参照 日本原始・古代史年表

(縄文時代の人々が精霊を感じるようになるまで)
縄文時代の人々は、食料を日々獲得して生きることがすべてであった。家族単位で行動している間は、明日の食料が得られるかどうかは、運次第であり自然の中にそれを左右する特別な力が宿っているとかを考えることもなかったであろう。次第に、狩猟を共同で行うようになり、いくつかの家族が共に暮らすようになると、食料獲得を計画的にする必要が出てきた。その日暮らしの行き当たりばったりでは、家族集団全体を養っていくことは出来ない。

しかし、狩猟採集は、農耕牧畜と違いその成否は多分に自然まかせで計画的と言うには程遠い。自然に対して自ら働きかけることがなく、自然の気ままさに頼らなくてはならなかったために、自分たちの力を特別なものとして意識することもなかった。自然と、自分たちを一体として考え、自分たちにあるものが自然にもあるに違いないと思ったであろう。自分たちが持つ「生命」や、「意志」が動物にもあり、更には自然現象そのものにもあると思ったかもしれない。毎日の食料獲得を計画的に行うには、気ままに見える自然そのものに「生命、意志」があることを認め、その「生命、意志」にお願いすることが必要であった。

(縄文時代の人々が、神を作り出すまで)
このようにして、自然の中に「生命、意志」を感じ、それを縄文時代の人は自分たちの持つ感覚、知恵、そしてこれまでの経験のすべてを結集して「精霊」を生みだした。しかし、自分のまわりの動物を見ても、鹿も猪も鳥も、基本的には人と同じレベルで食料獲得に一生懸命だし、生殖行動も人と変わらず、人が自然の脅威に怯えているときは、動物たちも同じ状態であった。人が餓死するときは、まわりの動物たちも同じように飢えていた。

人々は自然の中に見た「生命、意志」のある精霊より上位の「生命、意志」が、人を含めた自然を支配しており、その「生命、意志」に、毎日の食料獲得の計画性を保証してもらわなくてはならないと考えた。縄文時代の人が、それを何と呼んだのかは知らないが、はかなく消えてゆく人の命を超越したものとして、「永遠に続く生命、意志」を、家族集団全体で感じ、そして共同のものとして持ったに違いない。それが神であった。人は、人の一生を超越して存在する太陽や月、さらには大きな森を持つ山に「永遠に続く生命、意志」を感じ、神としたのであろう。

(神への饗応儀礼と、願いごとの絶対化)
神は、姿を見せない。そこで、神が姿を見せるための道具が必要であった。それが土偶である。神の「生命、意志」は祭礼儀式の手順を踏めば、土偶にあらわれることになっていた。そして、土偶に宿った神に、願いを聞いてもらいそして儀式の最後に、神には元の場所に帰ってもらった。祭礼が終わると、その祭礼の効力を絶対的なものにするために祭礼に使われた祭器は、すべて破壊された。特に土偶は、神が宿ったものであるのでそれを破壊することで、今回の祭礼の願い事が一方通行的で必ず聞き遂げられるものとするために、再度、神が気ままに戻ってきたりすることがないように破壊される必要があった。

(なぜ銅鐸は破壊されたか)
一つの考え。銅鐸は、土偶とおなじように神が宿るもの、依り代(よりしろ)であった。依り代ではなくとも、神の霊力が移ってくる重要なアイテムであった。土偶と同じように、祭礼の願い事の絶対化を図るために壊された。

もうひとつの考え。銅鐸は、そう簡単に壊れるものではない。銅鐸は、祭器としての役割が終わった時に、破壊され埋められた。繰り返し使われるときには、単に地中に埋められるだけであった。地中に埋めることは、土偶を壊すことと同じ効果があり、願いごとの絶対化が図られると信じられていた。

(土偶、銅鐸、そして銅鏡の破壊の意味するもの)
考えてみると、土偶と、銅鐸の壊される意味合いは少し違うように思えてきた。この後、銅鏡も意図的に破壊された例がある。3つを共通したもので関連付けようとしていたが、少し違うようだ。土偶は、小共同体の祭礼に使われた。銅鐸は、それよりも大きく首長のいるクニのレベルの祭礼で使われた。どちらも、個の保存(食料獲得)、種の保存(生殖、生命維持)を願っての祭礼であったように思われる。銅鏡は、クニ同志の連合を強化するための道具として使われたようだ。副葬品として使われる時には、権威の象徴として使われた。その破壊の意味合いは、何だったのだろうか。破壊が、願いの絶対化とすると、連合祭礼の場で連合を誓いあい同盟を絶対化するための証として鏡を破壊したのであろうか。

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古代出雲歴史博物館展示の縄文時代土偶
31:奥出雲町、飯南町、出雲市出土
32:飯南町 出土


銅鐸破片 兵庫県 久田谷遺跡(推定復元高 100cm超)
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posted by tamatama at 17:06|   土偶/銅鐸 2011年10月23日
銅鐸で知る古代祭礼儀式
銅鐸の絵は弥生人の豊穣を願ったものであるとしたが、神戸市神岡5号銅鐸に描かれている「3人で争う」図が、他のトンボ、スッポン、脱穀といった牧歌的な題材の図とは異質な感じがして考えてみた。

(3人の争いの図の説明)


神戸市神岡5号銅鐸の絵
3人で争う絵は左図

上図左の、3人で争っているように見える絵は、これまで、「中央の男が右の女性になぐりかかろうとするのを左にいる女性が止めようとしている」、あるいは、「左右の女性同士が争っているのを中央の男性が仲裁している」図ではないかと解釈されてきた。(「銅鐸の絵を読み解く」国立歴史民俗博物館編P77、78)


図110 二人の争い、脱穀から三人へ
右上・右下:辰馬404号 中:東博36667号 左:神岡5号
(「銅鐸の絵を読み解く」国立歴史民俗博物館編 P78)

さらに、「銅鐸そのもののいろいろな特徴を総合して、闘いの絵の変化を追っていくと」「二人の人が対決している絵(図110右下)と脱穀の絵(図110右上)とが途中で混乱してしまい、中央の臼に相当するものが一人の男性に置きかわってしまった」との考えを示し、他の銅鐸にその混乱の途中過程の絵(図110中)があることを述べている。(「銅鐸の絵を読み解く」国立歴史民俗博物館編P77、78)

(二人の争いの図)
図110のほかに、神岡5号の絵と類似の絵はないか探すと、福井県井向1号銅鐸にあった。下に示す。


2人の図
井向1号銅鐸
(「銅鐸の絵を読み解く」国立歴史民俗博物館編 P187)

この絵は3人の図の右側の2人と構図がよく似ている。これを見ると、大きな体の人が小さな体の人の頭をつかんで、棒か鎚のようなものを振りおろそうとしているように見える。改めて3人の絵と比べてみると、3人の絵は、左の人が中央の人の行動を止めようとしているように見える。


井向1号銅鐸の全体(宮川貞一・矢野健一の実測図 1995年)
(「銅鐸の絵を読み解く」国立歴史民俗博物館編 P187)

(3人の争いの図の新たな解釈)
銅鐸の絵の背景にあるのは、豊穣=食料獲得だと考えてきた。そうだとすると、3人の絵の右半分、また2人の絵は、大きな人が小さな人を殺して食料にしてしまおうとする絵なのであろうか。そして、3人の絵の左の人は、それはあんまりだと中央の人を止めている絵なのであろうか。常識的に考えてそれはなかろう。

豊穣を祈る祭礼には、「生贄」が神へ捧げられることがよくある。3人の絵は、中央の人が右の人を殺して生贄にしようとしている絵ではないのか。2人の絵は、殺そうとする場面そのものだし、3人の絵は人の生贄が禁止されたことを象徴させるために、止める3人目の左の人が加えられたのではないだろうか。

この突飛な考えに関連する資料を探して下に挙げた。
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(資料 1)
「播磨風土記」讃容(佐用)郡の条に、鹿と農業についての別の話があります。イモタマツヒメが生きた鹿をとり伏せて、お腹を割き、その血に稲籾に播いたところ。一夜の間に苗が生えたので、これをとって田植えをした、という内容です。」「横田健一さんは、獣の血が稲の生育を助ける呪力をもつ、という信仰があって、それにもとづく呪術か祭儀があった、と推定しましたし、佐々木高明さんも横田説に賛成して東南アジアの例をあげ、農耕儀礼の一貫として春の狩猟儀礼があったことを強調しました。」と述べている。そして、付けくわえて「古典と銅鐸の絵を比較するときは、あくまでもその間に何百年もの差があることを意識」することが肝要だと述べている。(「銅鐸の絵を読み解く」国立歴史民俗博物館編 P166)

(資料 2)
銅鐸と、中国、東南アジアの銅鼓がよく比べられている。九州国立博物館には、銅鼓展示のコーナーがあり、そこに銅鼓の解説映像があった。青銅器の容器のふた上部に祭礼の様子をジオラマ風に示したものがあった。その祭礼には、人が生贄にされる場面があった。

詛盟場面銅貯貝器
前漢、高さ53センチ、蓋の直径32センチ、1956〜1957年、雲南省晋寧県石寨山出土
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200701/15teji-3.htm

(資料 3)
中国の歴史書『三国志』の「魏志倭人伝」に、「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」とあり、邪馬台国の女王卑弥呼が死去し塚を築いた際に、100余人の奴婢が殉葬されたという。
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資料1からは、豊穣の祭礼に生贄の血が求められた可能性を、資料2からは、銅鐸のルーツかとも考えられている銅鼓を使った神秘的な儀式で人の生贄があったことを、資料3からは、卑弥呼の時代には、100余人の奴婢が殉葬(=生贄)されたということが分かる。だから、ただちに前2世紀から後4世紀の日本で銅鐸を使った豊穣祭礼の場で人が生贄にされたということが言えるわけではないが、銅鐸の3人の絵が豊穣祭礼の場での人の生贄に関連しているという案はどうであろうか。

そう思って見ると、最初の神岡5号の銅鐸の絵の右の鹿は、生贄のための鹿のように見えなくもない。
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posted by tamatama at 16:29|   土偶/銅鐸 2011年10月22日
銅鐸で知る豊穣のいのり
銅鐸について、考えてみた。

1)銅鐸の出土数は500個くらいで、その中で絵が描かれているのはほぼ1割。絵の題材には、決まりがあって150年以上ほぼ変わっていない。なぜ、銅鐸の絵は150年以上も変わらなかったのか。

祭礼に使われて変わらないものといえば、お経が思い浮かぶ。銅鐸に書かれた絵は、祭礼でシャーマンがあげる「お経」、「呪文」の内容を表しているのではないだろうか。ひょっとすると、神話的なストーリーがあったのかもしれない。祭器である銅鐸に銅鐸職人が自由に絵を描いていい、というのもおかしい話ではある。


みのり

2)銅鐸は、地中に埋設された状態で発見され、埋設方法に決まりがあった。横倒しにして断面アーモンド形長辺を垂直にする。なぜ、広い範囲で同じ決まりで埋設できたのか。

なぜ、広い範囲に散在している各所のシャーマンが、同じ決まりで埋設できたのか、それも数百年に渡ってということが疑問だった。私は、弥生時代に、各地のシャーマンをつなぐネットワークがあったのだと思う。政治的支配を行う首長のつながりとは別に、宗教、呪術で結びついた、今で言う、教団のようなものが存在していたのではないだろうか。基本は、血縁関係、世襲制度であっただろう。その中で「秘伝」として祭礼の方法、埋設の方法が伝わったのではないだろうか。その結びつきは強く、首長の政治支配が弱い弥生時代初期には、2重支配を呈する状態だったかもしれない。


銅鐸の埋設状態

3)銅鐸は、東海、近畿、山陰、山陽、四国の広い範囲で出土する。北九州からも出土。しかし、墳墓と一緒に埋めらることも、副葬品として埋葬されることもなかった。なぜ、銅鐸は首長の墳墓に埋葬されることがなかったのか。

ムラとムラ人を、現実の世界では首長が支配していたが、精霊の世界、精神世界ではシャーマンが支配していた。銅鐸は、首長の威信財(自らの権威をあらわす財物)ではなく、ムラの豊穣を祈るための祭器として不可欠なもので、そのためにだけ使われるものであった。そのため、首長の死亡時に共に埋葬されてはならず、ムラの中で世代を越えて引き継がれ使われなくてはならなかった。豊穣を祈る祭りは、縄文の昔よりムラの共同意思で行われており、弥生後期の段階では首長とは別の権威、シャーマンの権威のもとで行われなければならなかったのではないだろうか。

4)古墳が造られるようになると、銅鐸は使われなくなった。なぜ、古墳が造られるようになると銅鐸は使われなくなったのか。

豊穣を願うシャーマンの司る祭礼は、縄文の昔からのアニミズムに基づく習俗であった。古墳時代になって、首長の政治的支配が強まるとともに、首長の「神格化」が進んで、豊穣を司る主体が首長へと移って行き、これまでのアニミズムによる祭礼の意義が薄れていったと思われる。

卑弥呼の時代以降、政治制度の整備が急務となり、シャーマン女王の出番はなくなった。
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(参考)「岩波講座 日本通史 第2巻古代1」 1993年岩波書店 P257〜261)
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posted by tamatama at 23:50|   土偶/銅鐸 2011年10月21日
銅鐸で知る弥生人のこころ
銅鐸は、これまで500個くらい発見され、そのうち1割くらいに絵がかかれているそうだ。銅鐸の絵に興味を持ち、鉛筆で紙に書き写してみた。いくつか写しているうちに弥生人の気持ちになってきた。


伝香川県銅鐸 弥生中期(前2−前1世紀) 高42.7cm  国宝
(「日本の原始美術7 銅鐸」佐原真 著 講談社1979年)


神戸市神岡(かみか)5号銅鐸 脱穀の絵


神戸市神岡(かみか)5号銅鐸 狩人の絵

人の描き方には決まりがある。体は、逆三角形で、内側にもうひとつ三角形を描く。これは、内部が詰まっていることを示す。動物でも、魚でも、虫でも内部が詰まっていれば、何らかの線を内部に書き足すのが決まりのようだ。これが分かっただけでも、弥生人の銅鐸職人になった気がしてきた。

銅鐸に書かれた絵の題材にも、決まりがあるようだ。


福井県井向(いのむか)2号銅鐸 弥生前期  
題材は、トンボ、鹿、蛙・鳥、脱穀、スッポン、米倉、カマキリ
(「歴博フォーラム 銅鐸の絵を読み解く」国立歴史民族博物館編 構成・佐原真 1997年小学館 P184)


神戸市神岡5号銅鐸 弥生中期
題材は、蛙、蜘蛛、カマキリ、蛇・蛙、棒を持つ人、狩人、鹿、3人の人物の争いの場面、I字型棒を持つ人、魚、イモリ、トンボ、スッポン、魚を咥える鳥、脱穀
(「歴博フォーラム 銅鐸の絵を読み解く」P216、217)


伝香川県銅鐸 弥生中期
題材は、トンボ、蜘蛛、カマキリ、スッポン、魚を咥える鳥、イモリ・スッポン、狩人・猪・犬5頭、イモリ、トンボ、I型棒を持つ人、鹿・狩人、脱穀、高床倉庫
(「歴博フォーラム 銅鐸の絵を読み解く」P222、223)

上の3つの題材は、よく似ている。弥生人の頭の中にあったものは、トンボ、カマキリ、蜘蛛の虫3つ、そして水の中にいるイモリ、スッポン、魚、蛙とおそらく田のあぜにいる蛇、そしておそらく田に飛んできた鳥、狩人の姿、獲物の鹿と猪、脱穀と米倉、I型の棒をもってひざを曲げる人。

一番上の井向2号銅鐸と、2番目、3番目の神戸市神岡5号銅鐸、伝香川県銅鐸は時代的に150年の差があるそうだ。銅鐸に、描く題材は150年変わらなかったことになる。銅鐸に描く題材には、決まりがあるようだ。銅鐸は、祭礼、呪術の道具だったと考えられている。そうであれば、その題材も祭礼、呪術に関係があるものだろう。私たちが、はすの花びらのついた祭礼器をみて、仏教世界をイメージするように、当時の弥生人は上の題材、トンボにイモリにスッポン、・・・・鳥、そして狩や脱穀の姿を見てイメージするものがあったに違いない。それがどんなものか分からないが、題材から見て豊穣を願うものだったのだろう。

題材についてもう少し考えてみた。
1)人がかかわっているものは、脱穀、動物の狩、そうすると ひざを曲げて手にI型道具を持つ人は、海で魚を捕っている人と考えられる。神戸市神岡5号には、魚が描かれている。舟が描かれていないのは、舟が複雑であったから描かなかったのだろう。ひざを曲げて座っていることが舟に乗っていることの象徴で題材の決まりごとになったのだろう。

2)食料獲得=豊穣と考えると、そのほかの題材も食料獲得の姿を示しているように思える。
・トンボ :虫を捕らえるのが得意。(弥生人は、トンボが虫取りの名人であると分かっていた!)
・蛙   :蛙も虫取りの名人
・蛇   :もちろん、蛙捕りの名人
・かまきり:虫捕り名人
・スッポン:噛み付いたら放さない
・蜘蛛  :巧妙に蜘蛛の巣を作って虫をとる姿が、弥生人を感激させた。
・鳥   :おそらく 田んぼに来るサギだと思う。魚や、貝を上手に、貪欲に捕る。

3)トンボや、蛙、蛇・・・・鳥は、身近にいる食料獲得の得意な生き物だったので、弥生人にとっては「あやかりたい」生き物だったのではないだろうか。もし、体に刺青をするなら、トンボや蛙、蛇などの刺青をしたのかもしれない。

4)魚や、鹿、猪は弥生人にとっては食料だった。(鹿は、食べなくなったとの話があるが、猪の十分な獲得で鹿を取る必要がなくなったのではないだろうか。)トンボや、蛙が捕る側の豊穣の象徴なら、魚や、鹿、猪は取られる側の象徴であったように思う。同じように、銅鐸に描いても、弥生人の見る目は、トンボ、蛙などは、その力にあやかりたいものであって、魚、鹿、猪は捕って食べるもので捕っても捕っても、どんどん海から、山から沸いてきて欲しいと思う対象だったのではないだろうか。稲はもちろん、捕っても捕っても「沸いてきて欲しい」対象だった。

5)これらの題材を基にした神話的ストーリーがあったかどうかは、分からない。トンボは、季節がめぐってくるとどこからか沸いてきて虫捕りに精を出す、蛙も季節がめぐってくるとおたまじゃくしから蛙になって虫捕りに精を出す、・・・・鳥は、季節がめぐってくるとどこからか飛んできて魚捕りに精を出す、そんな姿に弥生人は不思議なものを感じて、あやかりたいと思ったかもしれない。私は、銅鐸の題材は、ストーリのあるものではなくて、そういった不思議なもの、霊的なものを感じた生き物を並べているだけのような気がする。銅鐸に描くくらいだから、トンボ、蛙、蛇、スッポンなどは捕ってはいけないという禁忌があったかもしれない。

6)トンボ、蛙、蛇・・・脱皮(変態)するものが並んでいるのだろうか。形が変化していくことに不思議な力を感じたのだろうか。稲の成長・・・花が咲いて、稲穂の中に実ができることの連想・・・・

考えてると、いくらでも妄想が膨らんでゆく。楽しいけれど、ここらで、やめておこう。

銅鐸は、豊穣を祈る祭器から、祖霊継承の祭礼器になっていったとのことだ。しかし、そうなっても鳥の絵や、動物の絵は一部残った。しかし、それらは、豊穣を祈って描いた時の名残として描かれただけで銅鐸職人の意識の中では、もうそれらは模様でしかなくなっていた。
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